自己責任論について(5)
前回までで、私はいくつかの資料を参考にさせて頂き、自己責任について考えてきました。
ここまで考えてきた結論を書くと、私は、安田純平さんがシリアで3年間拘束され、最近になって解放されたに対して、「自己責任」である、という発言には賛成できません。
それは、シリアという一国家に一個人が捕まった、という事実を鑑みると、
個人、あるいは1人の日本人がそこから救出されるためには、
何らかの国際政治的判断や取引、交渉が行われるべきであり、
それをたった1人が責任として背負うというのは重過ぎると考えるからです。
シリア国家との取引や交渉は、日本国という国が対等な立場で行うべきことであり、
それは日本国が国民を根源的に平和的な生活ができるように、
それは日本国憲法第25条第1項の生存権で規程しているように、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と考えるからです。
例えば、北朝鮮に拉致された被害者の方を、
一人で歩いていたから、とか、夜遅くに出歩いていたからだ、
と批判することは正しいのでしょうか。
彼らが北朝鮮の工作員に拉致されたことは「自己責任」なのでしょうか。
それは拉致された1つの理由ではあるでしょうが、
根本的には国家という巨大な力を使って個人を拉致した国が間違った行為をした、
と言われるのではないでしょうか。
今回の安田純平さんについても、危険区域に自分の判断で乗り込んでいった、
という1つの理由を取り上げて、「自己責任」だ、という発言は間違っていると考えています。
(ただし、これまた、世間の一部で騒がれているように、
自作自演であるのかどうかについてはここでは検討していません)
だから、安田純平さんは迷惑や心配をかけた方々に謝るべきであり、
今回の軽率だった行動を真摯に反省するべきでしょう。
とはいえ、誰にでも謝れ、という姿勢は違うと思っています。
その辺りについては考察したらキリがないので今日はそこまで進めません。
今日はとりあえず、安田純平さんについて騒がれがちだった「自己責任」について、検討したのみです。
上記を考えていて、本当は様々な事象が複雑に絡み合った個別の事例なのに、
統一した言語でラベルを貼って、臆断してしまう傾向は、右派左派、右翼左翼、
と勝手に人にタイプ分けする現代の風潮に似てしまってはいないでしょうか、
ということも思いました。
本当は、タイプ分けされた中身を解きほぐすべきであり、
非常に思弁的な哲学的・倫理的・歴史的・政治的・経済的等々の考察が必要なのであるはず。
それを怠ってのラベル貼り、というのは私はあまり感心しません。
亡くなった評論家の大宅壮一は、もはや大学は雨後の筍の如くに生え、
駅弁大学となり、そこを出た大学生はテレビを見て一億総ハクチ化になると言いました。
それもラベル貼りの一種ですが、
考える力、熟考する力、というのが無くなっているかのような、
そうした事態が来ているのではないかとも思うのです。
つまり、あまりにも早く情報が手に入るために、
現象の一部を見て、物事を判断しがちな傾向が強くないか。
私たちは福澤諭吉が言ったような意味で「一身独立して…」いるのでしょうか。
個人で世界に向かい合うだけの力を持っているのでしょうか。
私が危惧するのは、我々があまりにも個人的になり、物事を臆断するために、
その臆断同士で協力して絡み合い、何かの行動を起こすものの、
結局の処、根っこでは繋がりあっていないために、
肝心な時に協力関係が崩れることとなり、何も成し得ずに終わってしまうことです。
あまりにも頼りない個人が多くなり、彼らはSNSの声は大きいけれども結局の処、
経済も政治も社会も変えられないから、ただの発言だけが世論を形成することになる。
福澤諭吉が述べた独立した個人とは、確固とした一個の個人であり、
彼は別の個人と協調し、協力する関係が築けるものです。
肝心な時の集団行動が出来ないような人たちに、どれだけのエネルギーがあるものなのか、
例えばべ平連のような動きが、こんな浅はかな知性しかない現代の我々に取れるのだろうか、
そんな危惧を抱いています。
安田純平さんに対する「自己責任論」の問題はこんなところなのかなぁ。
これで良いのか、悪いのか、わかりませんが、次は、国家について考えてみたいです。
これはもっと重い問題でしょうけれどね。政治や憲法、三権分立、軍隊とか、
色々な話になりそうです。
現在、放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」でも、ようやく日本という1個の国が出来つつあるところですからね。
あなたの人生の主人公はあなた。
今日も素晴らしい一日でしたね。
明日も素晴らしい一日を過ごしましょう。
お互い、頑張りましょうね。
では、また。