自己責任論について(3)
引き続き、自己責任って何だろうと考えています。
日本でresponsibilityという単語に対して、「責任」という訳語がいつ作られたのか、
誰によって作られたのか、それ以前にどんな言葉が該当しているのかは、
すぐには調べられなかったので今後の課題です。
まずは、色々な情報を調べてみました。
責任の概念について考えると、J.P.サルトルが思い浮かびます。
あるいは、ノーム・チョムスキーが書いている『知識人の責任』のような責任。
実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものに対して責任がある。
したがって実存主義の最初の手続きは、
各人をしてみずからあるところのものを把握せしめ、
みずからの実存について全責任を彼に負わしめることである。
人間は自己の選択に対して全面的な責任があり、そこから逃れることはできない。
その意味で「自由の刑に処せられている」のである。人間は自分の本質を自ら創りあげることができるということは、
例えば、自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、
目標や未来像を描いて実現に向けて行動する「自由」を持っていることになる。
ここでサルトルが述べている自由とは、自らが考えた結果、
発生させたすべての行動とは、それは人類全体をも巻き込むものであり、
自分自身に全責任が跳ね返ってくることを覚悟しなければならないものです。
そんなところから考えてみると…。
安田順平さんは、自分自身で選択して、行動をした。
その点では、自分自身が取った行動に対して、その責任があると思われます。
しかし、それを「自己責任」と称して、シリアでもザンビアでも行くのは勝手だ、
もし戻りたいのであれば、勝手に生きて戻ってこい、一人で勝手に生き抜け、
というのが国家のあるべき姿でしょうか。
そもそも、「自己責任論」は、
2004年(平成16年)4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致し
「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きたことに対して
当時の小泉純一郎首相が「テロには屈しない」とこれを明確に拒否、
「自己責任論」を主張し、解放された人質らに対して外交経費を請求したのでした。
アンケート調査に回答した国民の約7割が小泉政権の対応を支持していた、と言います。
(どのように進めていくべきか、わからず書いていますが、続けます)
あなたの人生の主人公はあなた。
今日も新しい一日が始まります。
素晴らしい一日を過ごしましょう。
お互い、頑張りましょうね。
では、また。