自己責任論について(4)
世論の流行の早さに気づいています。
ブログの中でじっくり考究したかった「自己責任論」なんて、
もう目にしなくなってしまいました。
「自己責任論」という言葉自体がもの凄い加速度で逃げていったように感じます。
今後は社会的に発生した問題を考える、という姿勢でも、
2,3日で結論を出さないといけないのですね。
また、以下のこともわかったことかな。
・日本社会は驚くほど関心が移ろいやすい。
・TVのマスコミやツイッターの情報が、現代の情報の先端を作っている。
とは言え、結論が出ていない問題について、
擱筆(かくひつ)するのは残念ですから、しばらく考えたいと思います。
ただし、他に流行的な問題が出れば、それを追います。
例えば、渋谷のハロウィーンについて、韓国最高裁で賠償命令が出た元徴用工の問題について、「ブラジルのトランプ」氏が当選したことについて、等々。
さて、「自己責任」の反対語は「連帯責任」である、とwikipediaに書かれていました。
それを知ってか知らずか、
10月31日の朝日新聞オピニオン欄に「連帯責任を考える」というインタビュー記事が掲載されていました。
この中で、例えば元陸上選手の為末大さんが
私は陸上という個人競技の世界にいたので、
連帯責任が問われるような場面に遭遇した経験はありません
と述べています。
逆に言えば、すべてが自己責任、という意味でしょう。
陸上選手の個人競技を専門にやる方にとって、それは一理あるな、と思いました。
続けて
ただ、チーム競技では、集団のために個人があると考えないと成り立ちにくいところがある。
とも。
こう見ていくと、責任、とは、組織や集団の中で持つものであると考えられます。
私は個人的に松下幸之助翁を尊敬しているのですが、
自分自身、会社生活で悩むことが多く、最近は『指導者の条件』を読んでいます。
その中で、「責任感を持つ」という項目があるので、紹介します。
ここでは、指導者が持つべき責任感について書かれているわけですが、
大将として一朝時ある時には、自分が命をかけて一身に責任をとるのだ
という心がまえの大切さは昔も今も変わりはない」
とあります。
ここでも、組織や集団の中での責任に触れていますが、大事な視点だと思います。
一体、自己責任論、というのは組織や集団の中でも生まれ得るのかどうか。
ところで、これを読んで思ったのは、
ジャーナリストとは、誰のために、何に責任感を持っているものなのか、ということ。
政府?国民?世界の人々?戦争や飢餓で苦しんでいる人たち?
誰のために仕事をしているのでしょうか?
そうした点もあいまいなのかもしれませんね。
なぜ、安田純平さんはシリアへ行ったのか、なぜ行かなければならなかったのか、そうした説明もしてもらう方が、より良いのでしょう。
また、ここ数日は、安田純平さんの行為を、「責任」という言葉で片付けようとする姿勢が間違っているのではないか、と考えています。
今のところ、安田純平さんに向けられている「自己責任論」を端緒に、以下のような疑問が生まれてきています。
・国家とは何か、国民を守るものではないのか?
・日本国民は、「責任」概念を正しく理解しているのか?
・自己責任論、というのは組織や集団の中でも生まれ得るのか?
・ジャーナリストとは誰のための仕事なのか?
さて、これからどうするのか。。。
こんな感じで、様々な著作を追いながら、気になる課題について考究していく、という姿勢になるのかな。
まだ進め方については不明ですが、今年中には自分の強みにフォーカスした内容が記述できるようになると良いな、と思っています。
あなたの人生の主人公はあなた。
今日も素晴らしい一日でしたね。
明日も素晴らしい一日を過ごしましょう。
お互い、頑張りましょうね。
では、また。